CANON(キヤノン)買取
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CANON(キヤノン)
CANON(キヤノン)は、カメラはもちろんビデオをはじめとする映像機器、プリンタ、複写機などの事務機器、デジタルマルチメディア機器や半導体露光装置(ステッパー)などを製造するメーカーです。
カメラ業界においては特に一眼レフカメラで常にNikon(ニコン)と比較され、世界中のプロフォトグラファーのほとんどがこの2大メーカーどちらかのカメラを使用するほど世界を牽引しており、世界No1のシェアを誇ります。特に放送・業務用ビデオカメラ用のレンズ分野では世界を席巻する圧倒的なシェアを誇り、一時参入していたNikon(ニコン)の追随を許さなかったほどです。一眼レフカメラにおいては、プロとハイアマチュアの間でもはっきりとCANON派とNikon派に分かれます。そんな事もあって、カメラの中古市場においてもNikon(ニコン)と共に買取量・流通量がもっとも多いのが特徴で店頭で買取する一眼レフカメラはフィルムでもデジタルでも買取量はとびぬけて多いです。4年毎のオリンピックの大会にもなると、いつも注目されるのが報道カメラマン席。「白レンズ(キヤノン)と黒レンズ(ニコン)の占める割合」には多くのメディアやカメラファンが注目し、さながら第二のオリンピックを見ているかのようです。そんなライバル関係にあることをさらに強く感じるのが、カメラの各種操作ダイヤルやリングの回転方向。面白いほど全ての操作回転方向がお互いのメーカーで逆になっているのです。
ちなみにCANONというメーカー名の読みは「キャノン」(小文字の”ャ”)ですが、表記は「キヤノン」(大文字の”ヤ”)が正解です。戦前の拗音の「ヤユヨ」を小さく表記しなかった名残と、小文字の”ャ”の上に隙間が空いているように見えるのを避けるためと言われています。この「キヤノン」の名は、創設者でもあり観音教の敬虔な信者でもあった吉田五郎が観音菩薩の慈悲にあやかりたいという気持ちから、1934年に完成した国産初の精密小型カメラの試作機に名付けた「KWANON(カンノン)」に由来しています。レンズは釈迦の弟子の一人であった大迦葉(マーハ・カサーパ)にちなみ、「KASYAPA(カシャパ)」と名付けました。カメラボディーの軍艦部には千手観音のマークまでが刻印されています。
1935年には、「聖典」「規範」「標準」という意味を持ち精密機器の商標に相応しいということで、現在のCANON(キヤノン)というブランド名を採用します。今では馴染みとなっているロゴの赤色は『キヤノンレッド』とも呼ばれており、1974年から採用されている色です。
さて、キヤノンの歴史は1933年から始まりますが、前年の1932年に35mm高級カメラの代名詞とも言えるドイツ製のLeica(ライカ)やCONTAX(コンタックス)の2大巨塔が世界に君臨し超高級カメラとして支持されていた頃に遡ります。当時、吉田五郎自身が理想とする35mm高級カメラの製造事業化を夢見て「ライカII型」を分解して構造を徹底的に1年かけて研究し、1933年11月に現在の東京都港区六本木に「精機光学研究所」を設立した事に始まります。そして登場したのが国産で初めての35mm距離計連動フォーカルプレーンシャッターカメラの試作機「KWANON(カンノン)」だったのです。ただ、このカメラは完成品とまで行かず市場に出ることはありませんでした。何とかこのカメラを世に出すために試行錯誤を繰り返していましたが、レンズなどの部品を調達するパートナーが見つからず困難を極めます。そこで助けを求めた先が、なんと「日本光学工業株式会社」。そう、現在のライバルであるあのNikon(ニコン)だったのです。元々日本光学工業株式会社は旧日本軍への軍事商品の製造が主であったのを、戦後になり一般民生品への進出を計画していたこともあり、両社の思惑が一致したことで日本光学工業株式会社の協力を得ることとなります。今では考えられないことですが、お互いに手を取り合っていた時代があったのです。そして1936年にキヤノン製35mmレンジファインダーカメラの第一号機「ハンザキヤノン標準型 ニッコー 50mm F3.5」を発売します。国産35mmカメラの中では、「ニコンI型」と並んで希少性が高く、およそ3年間製造されていました。そして販売ルートの確保のために近江写真用品(株)と販売代理の契約を結び、中世ヨーロッパの商人組合ハンザ同盟に由来するという近江屋写真用品の商標名「ハンザ」を付けたのが「ハンザキヤノン」の名の由来です。ここから本格的にカメラメーカーとしての歴史を歩み始めることになります。
「精機光学研究所」から「精機光学工業株式会社」となったのもこの頃です。法人化のきっかけは、当時のカメラの生産台数が月にやっと10台ほどで、1週間に1台がやっとだった時もあったとも言われています。これでは経営が苦しくなるのは明らかです。そこで出資者を募り1937年(昭和12年)8月10日に「精機光学工業株式会社」と法人化に踏み切ります。
法人化の後は経営も順調となり、「ハンザキヤノン」に続いて1939年(昭和14年)2月に「最新型」、「普及型」、「新標準型」を発売します。このように次々と新たなカメラを発表していましたが、その製造工程は部品を一つ一つヤスリで削ったり、細かな隙間の調整をしたりと全てが手作業でした。
「最新型」以降のカメラからは「ハンザ」の名称が省略され「キヤノン」となりますが、近江屋写真用品との関係が終わったわけではなく、引き続き販売面で良好な協力関係にありました。そんな近江屋の後押しもあり順調な販売を続ける中、すでにライカ、コンタックスが圧倒的な地位を確立していたヨーロッパへの進出を視野に入れて、1938年(昭和13年)にイギリスの写真業界誌『The British Journal of Photography』3月号に、「HANSA CANON」という近江屋による大きな広告を掲載します。 こうして国産高級35mmカメラと言えば、「精機光学のセイキキヤノン」と言われるほどに日本以外でも地盤を固めつつある中、自社開発製造によるキヤノンレンズの声が上がり始めます。そこで誕生したのが精機光学工業の光学技術者であった古川良三による「セレナーレンズ」です。
1945年(昭和20年)8月15日の太平洋戦争が終結した頃、幸いにも精機光学工業は大きな損害を免れていましたが、重度の物資不足と終戦後の混乱の中であったため、当時の御手洗毅社長は一旦会社を一時休止し解散する決断を下します。しかし、アメリカ軍を中心とした連合国軍が日本製のカメラに大きな関心を寄せていたこともあり、会社解散からわずか2ヶ月ほどで連合国軍の民需製品製造の許可を得て会社を再開することになります。そうして発表された戦後のカメラ第一弾が「J II型<J戦後型>」でしたが、日本全体で物資不足が続いていた事もあり、手元に残っている部品をかき集めてようやく3台だけを製造。レンズに至っては「セレナー50mm F3.5」と日本光学工業から供給の「ニッコール50mm F3.5」だけという状況でした。 それでも少しずつ戦後の復興を果たしていく中で、「J II型」は順調に生産台数を伸ばしていきます。そんな35mmレンジファインダーカメラが時代を席巻していた頃、ドイツのLeica(ライカ)が 「M3」を発表します。ファインダーの明るさと見えやすさ、連動距離計の正確さなど他の追随を許さない完成度の高さを前にNikon(ニコン)ですらレンジファインダーカメラからの撤退を決断したほどです。しかしCANON(キヤノン)は「一眼式連動距離計」という、当時のライカにない独自のシステムを搭載した新製品「S II型」を発表。1949年(昭和24年)4月には、使用レンズによってファインダー倍率を手動で変更可能とする、3段変倍一眼式連動距離計というこれも独自のシステムを搭載した「II B型」を発表します。
社名が現在の「キヤノン株式会社」になったのはこの頃です。当時日本に駐留していた進駐軍のカメラ好きの将兵たちから、レンズが「セレナー」でカメラは「キヤノン」、メーカーが「精機光学工業」は分かりにくいなどの声を受け、世界を視野に発展していく事を念頭に1947年(昭和22年)9月15日に社名を「キヤノン株式会社」とし、メーカーとカメラの名前を統一しました。またこの頃に「セレナー50mm F2」と「セレナー135mm F4」が発表されたのを受け、日本光学工業(現ニコン)はこれまで提供していたニッコールレンズの供給を取りやめます。
社名を統一してから、御手洗社長はアメリカに販売活路を見出すべく、映写機などで販売網を誇る名門ベル・アンド・ハウエル社へ旅立ちますが、当時の「メイド・イン・ジャパン」は今のようなステイタスが全く無かったことや、本社工場が火災に弱い木造建築であったことを理由に提携を拒否されます。そこで旧富士航空計器株式会社の工場を購入し不燃性工場への改装や近代設備の充実にいち早く着手することで、世界を視野に入れたキヤノンの礎が着実に築かれて行きます。
1951年には初の1/1000秒シャッターを搭載した「III型」を発表。そのわずか2ヶ月後にはレール直結式フラッシュ装置つきの「IV型」、「III型」の改良タイプ「III A型」など次々と新商品が発売された年でした。それでも新商品の開発は衰えること無く、1952年(昭和27年)12月に世界で初めてスピードライトに同調する機能を搭載し名機と言わしめた「IV Sb型」が発表されます。さらに改良を施された「IV Sb改型」に至ってはライカにも劣らぬ名機と言われました。
しかしやはりLeica(ライカ)の「M3」の他を寄せ付けない圧倒的な完成度があまりにも高く、キヤノンを含めた他のメーカーは日本独自の一眼レフカメラにシフトして行くことを余儀なくされます。それでも1956年(昭和31年)8月に「VT型」、1959年(昭和34年)に「P型<ポピュレール>」、そして、1961年(昭和36年)3月に最終シリーズの「7型」、1965年(昭和40年)4月には「7S型」を発売します。多くの支持を得て大変な人気となりましたが、もはや日本では他社メーカーを中心に一眼レフカメラの時代に移行しつつありました。そしてついに1968年(昭和43年)9月、「7S型」が製造中止となり、「KWANON(カンノン)」から始まったキヤノンの35mmレンジファインダーカメラの時代が終わることになります。
キヤノンはここまでの間、高級機だけに絞った商品の製造販売を手がけてきましたが、社内では中級機・初級機も製造すべきという声が上がり始めていました。特に若手社員の間から自分たちの給料でも買えるカメラを作りたいという声にGoサインが出され、35mmレンズシャッター機の開発が進められます。そして、誕生したのが「キヤノネット」です。1960年(昭和35年)8月の発売に向けた破格の2万円以下という驚異的な低価格設定は、カメラ業界から多くの反発を買い発売延期になったほど。そしてようやく1961年(昭和36年)1月に発売されることになります。発売当時の日本橋三越では1週間分の在庫がわずか2時間で完売。そしてその後、さらに軽量コンパクトなハーフサイズカメラ「キヤノンデミ」を1963年(昭和38年)2月に発売しこれも大ヒットとなりました。
キヤノンの35mmレンジファインダーカメラが終焉を迎えようとしていた頃、1956年(昭和31年)11月に発売したのが「シネ8T」。これはキヤノンの初めての8mmシネカメラ(小型映画用カメラ)です。これは御手洗社長が各国のカメラ事情を視察したのがきっかけで開発され誕生したカメラです。映画映像分野においてもキヤノンは確実な歩みを始めていました。
またこのカメラの開発と同時並行的に、レンズ部門ではズームレンズの開発も行われていました。そして1959年(昭和34年)10月、「キヤノンレフレックスズーム8」が誕生。加えてコダック社や富士写真フイルム株式会社がそれぞれに発売したフィルム新規格に対応するレンズを発表し、1968年(昭和43年)4月には12倍比という高倍率ズームを搭載した「オートズーム1218スーパー8」が話題となりました。
さて、日本の35mm一眼レフカメラの流れに合わせて1959年(昭和34年)5月にキヤノンから登場したのが、「キヤノンフレックス」です。ちょうど時を同じくして、日本光学工業株式会社(現Nikon)から「ニコンF」が発売されています。今ではライバル関係にある2社ですが、一眼レフカメラのスタートラインはほぼ同時だったのですね。
またこの頃に開発された一眼レフカメラ用のレンズが「Rレンズ」です。広角「R35mm F2.5」、標準「R58mm F1.2」、超望遠「R1000mm F11」などの単焦点レンズを中心に全部で約16種類が世に出ましたが、「R55-135mm F3.5」は、Rレンズとしてはキヤノン初のズームレンズです。しかし製造コストや今後の技術展開など踏まえて、新たに「FLレンズ」が登場します。蛍石を採用した「FL-F300mm F5.6」、「FL-F500mm F5.6」は、1969年(昭和44年)に市場に投入されました。
1964年(昭和39年)になると一眼レフカメラのプロ用最高級機への要望が社内のみならず社外からも高まり、およそ5年間の開発を経て登場したのが、あの名機「F-1」です。正常に動作すれば現在でもしっかりと弊社MARUKA(マルカ)で買取価格が付く商品です。「F-1」開発に対するキヤノンの気合いは相当のもので、一般的なカメラの開発販売の流れはというと、まずカメラボディーの開発から入り、それに付随する必要最低限のアクセサリーが後から開発され、カメラ発売後に少しずつアクセサリーが充実されるというのが一般的です。ところが「F-1」に関してはボディーの開発段階からアクセサリーも含めたトータルなシステムカメラとして開発されました。通常のカメラ開発にかかるおよそ十倍以上の開発費用がかけられ、アクセサリー数だけでも約180種類にものぼります。プロユースであるため、シャッター耐久10万回、外気温-30度~60度まで使用可能といった高耐久性と環境性能を実現し、1980年(昭和55年)レイクプラシッド冬季オリンピックの35mm公式カメラにも認定されました。 プロユースの「F-1」に対して、中級機として同時に発売されたのが「Ftb」です。当時新しく登場したFDレンズなどと3年間で100万台を売り上げ大変な人気となりました。
そのFDレンズはこれまでのFLレンズからの単なるモデルチェンジではなく、まだ一般的でなかったAE(自動露出)や電子技術などを将来の念頭に入れて誕生したものでした。セレナーレンズの開発に携わった伊藤宏による光学系の設計・開発・商品化への基本方針を元に1971年(昭和46年)3月、一度に14本ものFDレンズが発売されました。そしてそのレンズ特性に合わせるように、1973年(昭和48年)11月に、初のAE一眼レフカメラ「EF」を発売します。
1976年(昭和51年)に入ると、カメラの自動化・電子化が急速に進みます。世界で初めてCPU(Central Processing Unit)を搭載した35mmシャッタースピード優先式TTL・AE一眼レフカメラ「AE-1」が大人気になったのを皮切りに、1978年(昭和53年)4月にはシャッタースピード優先式AE、絞り優先式AE、プログラムAE、絞り込み実絞りAE、ストロボAEという5つのAEモードを持つ「A-1」が登場しました。こうしたさまざまな世界初のマイクロコンピュータを搭載した完全デジタル制御方式は、中学・高校生などの若い世代の支持を集めることにもなりました。
カメラのAE・電子化が進む中で、FDレンズも改良が進みます。特に大きな改良は、レンズ着脱方式がレンズの外側のリングで締め付ける方式だったものから、ロック機構の付いたワンタッチ着脱方式が採用されます。製品の型番の刻印は従来通りですが、買取などの際には「ニューFD」といって区別されます。もちろん従来のFDレンズより、「ニューFD」の買取価格の方が高いのは言うまでもありません。
一方で「向こう10年間は、基本仕様と機能を変更しない」という公約の元、完成度の高さからプロユースとして君臨し続けていた「F-1」も、様々な電子技術投入の流れを受け入れる形で、これまでのユーザーの意見を集約し、さまざまな技術を集結、高品質と高精度、高耐久を何よりもの重点として1981年(昭和56年)9月に「New F-1」として生まれ変わります。その高い信頼性から、1984年(昭和59年)のロサンゼルス・オリンピック大会でも公式カメラに認定され、オリンピックのみならず世界各地のビッグイベントで貴重な記録写真を残しました。
第2次オイルショックの時代になるとカメラの需要が減り、一眼レフカメラよりも安いカメラを求める声が上がり始めました。それに答える形で登場したのがTシリーズです。1983年(昭和58年)3月に「T50」、翌年の4月に「T70」、そして1985年(昭和60年)4月には「T80」。いずれもあらゆる機能を自動化し撮影を容易にするための工夫が施されました。
1979年(昭和54年)11月には、AF(オートフォーカス)レンズシャッター機の熾烈な販売競争に少し遅れる形で、暗闇にも強いキヤノン独自の近赤外線発光ダイオードを利用した三角測距のアクティブ方式を採用した「AF35M(通称オートボーイ)」が登場しました。
そして、ロサンゼルス・オリンピックでのデータと経験を元に、磁気記録タイプのスチルカメラの開発に入り、1986年(昭和61年)にスチルビデオカメラ「RC-701」を世界で初めて商品化。記録方式はアナログ方式でしたが、この時に培われたノウハウや技術は、今のデジタルカメラへと受継がれて行きます。
1985年ごろになると本格的にAF35mm一眼レフ時代に突入し、ミノルタやニコンから意欲的な商品が発売され大きく差をあけられました。そこで同年3月、『キヤノンらしい完成度の高いAF一眼レフを市場に投入すべし。発売はキヤノン創立50周年に当たる1987年(昭和62年)3月1日』という決定が下されます。開発計画名は「EOS(イオス)」。ギリシャ神話に登場する「曙の神」の名でもあります。そして予定通り1987年(昭和62年)3月に「EOS 650」が発売され、2ヵ月後には国内、ヨーロッパ市場においてシェアNo1を獲得します。さらに日本カメラグランプリや、ヨーロピアンカメラ’87/’88をも受賞しました。
その後は上位機種「EOS 620」が発売され、1989年(平成元年)に「EOS 630」、そしてついにEOSフラッグシップ機となる「EOS-1」が発売されます。
EOS開発とともにEFレンズの開発も進み、これまでのFDマウントから完全電子化マウントに一新します。EFマウントは、35mm一眼レフカメラ用としてはこれまでにないマウント内径54mm(外径65mm)という世界でも一番の大きさになっています。この大口径マウントのおかげで、35mm一眼レフカメラ用交換レンズとして世界最高の明るさを実現した「EF50mm F1.0L USM」が誕生しました。
1990年代に入ると光学・電子技術がさらに向上し、明るい大口径、超望遠などのレンズに対応できるカメラへの要望が高まり、1994年(平成6年)11月に「EOS-1N」が発売されました。AFカメラのプロユースとして約6年にも渡ってフラッグシップ機として多くのプロたちに使われました。
一眼レフカメラ入門用エントリーモデルとして、1993年(平成5年)9月に「EOS Kiss」(Kiss:Keep It Smart and Silentの略)が発売されます。入門機と言っても、AF機能、露出機構、豊富なAEモードなどは上位機種と同等の性能を有し、入門者だけでなくハイアマチュア層にも受け大ヒットとなりました。
1996年(平成8年)9月には「New EOS Kiss」が誕生、新開発のマルチBASISのAFセンサーによる3点測距などの新機能も搭載します。また、動きのある被写体に対しても、動体予測・AIサーボAFにより素早いピント合わせが可能となりました。 その後も意欲的に新技術がEOSカメラへ投入され、1992年(平成4年)11月には視線入力AF機構を搭載した「EOS 5QD」、中級普及モデルの「EOS 55」が誕生しました。
この頃から各家庭にはパソコンが普及し始め、PCユーザーはもちろん開発陣からも画像をパソコンに取り込みたいという要望が沸き上がり始めます。1992年(平成4年)から本格的なデジタルカメラの開発が始まり、1996年(平成8年)7月に最初の普及型デジタルカメラ「PowerShot 600」が発売されました。
一方で1998年(平成10年)11月に発売された「EOS 3」は、当時のフラッグシップ機「EOS-1N」を凌駕する各種機能を備えていて大きな話題となりました。
1999年(平成11年)4月には入門機の新モデル「EOS Kiss III」が登場します。入門機ではありましたが、オーバースペックとも言われるほど上位機種に匹敵する機能を備えていました。
2000年(平成12年)4月には「EOS-1N」が新たに「EOS-1V」としてリニューアル。数々の最先端技術を導入し、高耐久性能も持ち合わせ、プロユーザーからの信頼を集め、カメラ記者クラブ主催の第17回カメラグランプリを受賞するなど、その地位を不動のものにしました。
カメラ以外でもさまざまな分野でデジタル化が進み、世の中はまさにデジタル時代。その流れに乗るように1998年(平成10年)3月に「EOS D2000」、12月に「EOS D6000」といった一眼レフタイプの高級機を発売。1998年(平成10年)4月に誕生した「PowerShot A5」は81万画素のCCDを搭載し、ポケットに収まるコンパクトサイズのデジタルカメラとして圧倒的な人気を誇りました。同年11月には168万画素CCDを搭載して機能をリファインした「PowerShot Pro70」を発売しました。2000年(平成12年)5月には、今ではコンパクトカメラの代名詞にもなっている「IXY DIGITAL」が登場。211万画素のCCDを搭載し、200万画素クラスの光学ズームレンズ搭載機において世界最小・最軽量のデジタルカメラとなりトップシェアを獲得する大ヒット商品となりました。
一眼レフデジタルカメラにおいては、これまで一部のプロが使う超高級デジタル一眼レフカメラだけでした。そこで一般ユーザー向けに2000年(平成12年)9月に発売されたのが「EOS 30D」です。325万画素の大型CMOSセンサーを搭載しながら、同クラスで世界最小・最軽量のボディーを達成しました。
その後、報道分野やスポーツ分野などのプロの求めるレベルに答える形で2001年(平成13年)に誕生したのが「EOS-1D」です。また2002年(平成14年)にはポートレート・商品撮影・風景写真の撮影に特化した「EOS-1Ds」も登場します。
CMOSイメージセンサーは昔も今もキヤノンの完全独自開発・自社生産によるもので、「EOS-1Ds」は世界で初めてとなるフルサイズ1110万画素という他を寄せ付けぬ圧倒的な性能を誇るイメージセンサーを搭載しています。
コンパクトデジタルカメラにおいても、2001年(平成13年)10月に400万画素CCDを搭載した「PowerShot S40」を、12月には320万画素CCDを搭載する「PowerShot S30」を発売します。
さらに、400万画素の高精細CCDと光学4倍ズームレンズ(F2.0-3.0)の大口径比を実現した最上位機種「PowerShot G3」を2002年(平成14年)9月に発売。カメラの縦・横位置を自動的に検知する「SIセンサー」やAF・AE・AWB(オートホワイトバランス)を制御する「iSAPS」テクノロジーなどさまざまな機能を搭載していました。併せて、新開発された映像エンジン「DIGIC」により、膨大な映像情報を高速処理することでシャッターレスポンスが向上しました。
こうしたデジタル化の波が一眼レフカメラ入門機「EOS Kiss」に及ぶのもごく自然のことでした。2003年(平成15年)9月に「EOS Kiss Digital」が登場します。コンセプトはこれまでと変わらず、誰でも簡単に綺麗に高画質な写真が撮れる入門普及機として630万画素大型単板CMOSセンサーを搭載し、最小・最軽量のコンパクトボディと相まって、これまでは一部の「写真マニアの趣味」というイメージであった一眼レフカメラへの門戸を大きく開き、若い世代を中心に多くの写真愛好家が増えるきっかけとなりました。
2003年(平成15年)には地上デジタル放送が開始されるのに合わせて、映像分野においてはカメラのセンサーへの性能要求が高まり、一般ユーザーからも35mmフルサイズのイメージセンサーを搭載したカメラへの要望が高まります。フルサイズセンサーを搭載したカメラが定価100万円を越えていた時代、2005年(平成17年)10月に30万円台という衝撃的な価格で誕生したのが「EOS 5D」です。これをきっかけに他社もフルサイズセンサーに本腰を入れたのは言うに及びません。
2007年(平成19年)11月には約2,110万画素で35mmフルサイズCMOSセンサーを搭載した「EOS-1Ds Mark III」がデビューします。ライブビュー機能が搭載されていましたが、動画撮影機能はまだ付いていませんでした。
そしてキヤノンの一眼レフカメラ累積生産5,000万台を達成した2008年(平成20年)、世界中に衝撃を走らせたデジタル一眼レフカメラが誕生します。世界初フルHD動画撮影機能を搭載した「EOS 5D Mark II」です。その技術が世界中で高く評価され、「TIPA ベストエキスパートデジタル一眼レフカメラ2009」、「カメラグランプリ2009大賞」、「EISA ヨーロピアン・アドバンスト・カメラ2009-2010」という世界の三大カメラ賞を総なめにします。また、テレビ朝日の番組「世界の街道をゆく」にも採用されるなど放送業界に与えた影響はとても大きなものでした。中古市場においては現在でもハイアマチュアを中心にとても人気がある機種で、発売から10年近くも経つデジタルカメラとしては異例の高い買取価格が付いています。
2009年(平成21年)10月には、世界初となる約1,800万画素のCMOSセンサー(APS-Cサイズ)を搭載し、映像エンジンを2個「デュアルDIGIC 4」を装備した「EOS 7D」が登場します。
一方でレンズの技術革新も着実に進み、特殊コーティングSWC (Subwavelength Structure Coating)や「角度ブレ」と「シフトブレ」の2種類のブレを補正する「ハイブリッドIS」が「EF100mm F2.8L マクロ IS USM」に採用されるなどして、2009年(平成21年)にはEFレンズの累計生産本数が5,000万本を突破します。
画像処理エンジン「DIGIC」も進化し続けており、「IXY DIGITAL 510 IS」・「PowerShot D10」などを筆頭に現在の最新(2017年4月現在)の「DIGIC7」に脈々と受け継がれ、IXY DIGITALシリーズ、PowerShotシリーズ、EOSシリーズ全てにおいて採用されています。
映像の分野においては、2008年に世界初のフルHD動画撮影機能を搭載した「EOS 5D Mark II」の35mmフルサイズのCMOSセンサーと、大口径EFレンズとの組み合わせで撮れる動画クオリティーがプロ用超高級映画カメラを超えるものであったため、映画の本場ハリウッドで大きな注目を浴びます。その注目を受け、「新しい映像文化の創造に貢献する」ビジョンのもと、「目指せハリウッド」を合言葉に本格的なシネマ分野への進出が始まります。
2012年1月に正式に「CINEMA EOS SYSTEM」として、映画用フルハイビジョンデジタルシネカメラとレンズ、周辺機器が発売されます。将来に向けて、フルHDの4倍に相当する4K高精細動画を撮影することを前提に設計され、2012年に「EOS C500/C500PL」、「EOS-1D C」を発表。これまで既存のEFレンズが使用可能であったことから、各映像分野プロから多くの信頼を得ることに成功し、システム全体として「iFプロダクトデザインアワード」を受賞しています。
「CINEMA EOS SYSTEM」のために開発・搭載されたCMOSセンサーは4K高精細動画を想定して開発されたものでもあり、2013年にはこの技術を生かして高速AFを実現した「デュアルピクセルCMOS AF」を完成させ、「EOS 70D」に搭載されることになります。動画撮影時のスムーズなピント合わせが可能になり、スチル撮影のライブビュー撮影時においても高速、高精度なピント合わせが可能となりました。
このころ、他社メーカーからデジタル一眼レフカメラ内のミラー機構を除いてボディーの小型軽量化を図った「ミラーレスカメラ」が多く発売され始め、CANON(キヤノン)は後発ながらもEOSデジタル一眼レフカメラと同等の大型イメージセンサーを搭載する「EOS M」を2012年に発売します。他社メーカーにはない大型イメージセンサーならではの画質の良さで話題となりました。その後も2013年に「EOS M2」、2015年に「EOS M3」、「EOS M10」、2016年には「EOS M5」、2017年に「EOS M6」を発売します。
コンパクトデジタルカメラにおいても、大型イメージセンサーの搭載を積極的に推し進め、1.5型CMOSセンサー、F2-3.9レンズを搭載したハイエンドコンパクトデジタルカメラ「PowerShot G1 X Mark II」を発売します。また、スマートフォンが台頭してくる中にあっても、競合するのでなく協調するためにカメラへのWi-Fi機能搭載やアプリのリリースなども積極的に進めていきます。
デジタル一眼レフカメラのラインナップも充実され、これまでの画素数優先の「1Ds」と連写性能優先の「1D」を統合した「EOS-1D x」と、世界初のフルHD動画撮影機能を有する「EOS 5D Mark II」の後継機、「EOS 5D Mark III」を2012年3月に発売します。2012年11月にはEOSシリーズとして初めてWi-Fi機能を搭載した「EOS 6D」を発売。2014年11月には最高約10コマ/秒の高速連写と高性能AFを搭載し鉄道・飛行機写真などの動く被写体をメインにするユーザーから人気を博すことになる「EOS 7D Mark II」を発売します。
さらに2015年6月には、「EOS 5Ds / EOS 5Ds R」を発売。他社にもこれまでなかった約5060万画素という高画素35mmフルサイズCMOSセンサーと、デュアルDIGIC 6の採用による圧倒的なディテールの写真撮影が可能となり、スタジオ撮影といった広告分野におけるプロの信頼を獲得します。
2016年9月には、CANON(キヤノン)のデジタル一眼レフカメラのハイエンドモデル機「EOS-1D X Mark II」と同等のAFシステムなど搭載する「EOS 5D Mark III」の後継機「EOS 5D Mark IV」が発売されました。 一方でEFレンズ群は、垂直に近い角度で入射する光の反射防止に効果のあるASC(Air Sphere Coating)や、入射角の大きな光の反射を抑制するSWC(Subwavelength Structure Coating)などのコーティング技術、動画撮影時に静かでスムーズなAF駆動が可能なSTM(Stepping Motor)、青色(短い波長域)の光を大きく屈折させて高水準の色収差補正を可能にするBR(Blue Spectrum Refractive)レンズの開発など、これからのカメラの高画素化に合わせるように進化を続けています。 さすが世界のCANON(キヤノン)だけあって、この辺りの最新のデジタル一眼レフカメラやEFレンズの買取価格は非常に安定しています。
MARUKA(マルカ)にはこの業界では珍しい現役のプロフォトグラファーが「四条店」に在籍し、CANON(キヤノン)を始めとするその他全てのカメラメーカーのフィルムカメラから、最新のデジタルカメラの買取に対応しています。プロフォトグラファーならではの写真や撮影に関するアドバイスもご好評を頂いております。MARUKA(マルカ)四条店は、四条烏丸から大丸京都店前を四条通り沿いに東へ歩いて3分の距離。堺町通りと柳馬場通りの間の北側にございます。京都市営地下鉄烏丸線「四条」駅・阪急京都線「烏丸」駅(13番出口すぐ)・市バスなど交通アクセスも抜群です。四条河原町方面からも、タカシマヤ京都店や寺町・新京極商店街の前を経由して10分ほどの距離にあります。
2017年3月には大阪難波ミナミの地に「MARUKA(マルカ)心斎橋店」もオープンしました。長堀通と御堂筋が交差する「新橋交差点」から西へ行ってスグ、イタリア時計の「GAGA MILANO」が入るビルが目印です。最寄り駅は大阪市営地下鉄御堂筋線・長堀鶴見緑地線「心斎橋駅」。梅田駅(キタ)から10分ほど。難波からなら散歩がてらに歩いても10分ほどです。若者で賑わうアメリカ村からなら徒歩で5分ほど。地下街・クリスタ長堀の「南14番」をご利用頂くと上がってスグなので大変便利です。
2017年5月には新しく神戸・三宮にMARUKA(マルカ)のお店が誕生します。JR「三ノ宮」駅、神戸市交通局「三宮」駅、阪急・阪神「神戸三宮」駅と同じ場所にあるのに駅名が違うから少し混乱しますが、神戸ポートアイランドからもポートライナーでお越しいただけます。神戸・三宮センター街やフラワーロード、中華街のある元町からもスグ。お洒落な街・神戸でもどうぞよろしくお願いいたします。もちろんMARUKA(マルカ)の全店舗でカメラ・レンズの買取が可能です。東京・有楽町と新橋の間、銀座5丁目の「MARUKA(マルカ)銀座本店」、池袋や新宿方面なら「MARUKA(マルカ)渋谷店」売りたい買取商品がたくさんあって店頭へお持ちいただくことが難しい場合は、ご自宅まで査定士が直接お伺いする「出張買取サービス」、お近くに店舗がない場合は商品を弊社に郵送頂く「宅配買取」もございますので、関東一円、関西一円、九州はもちろん、中国四国地方、東北、北海道など日本全国どこからでもご利用いただけます。
MARUKA(マルカ)は地元京都で60年以上続いている質マルカを母体に、ずっと変わらない安心と信頼をお届けしています。ご不要になったカメラ・レンズの買取ならMARUKA(マルカ)にお気軽にご相談下さい。