荒川豊蔵は昭和を代表する美濃焼の陶芸家です。
荒川志野と呼ばれる独創的で独自性がある作品を生み出すことに成功しています。荒川豊蔵は岐阜県多治見市で生まれています。
あの高田焼を造ったことで有名な加藤与左衛門景一の家系であったことで知られています。
地元の多治見小学校を卒業した後に神戸の貿易商能勢商店とその後、陶磁器貿易商木塚商店ではたらきます。その後、木塚商店の繋がりで名古屋に住み、その時に知り合った鈴木勲太郎からの研究で特殊な絵具を使った手描きの上絵付きコーヒー茶碗のプロデュースをして成功します。成功してことにより上絵磁器事業を起こしますが残念ながら、この事業は上手くいきませんでした。
しかし上絵磁器を納めていた京都の錦光山宗兵衛の顧問をしていた宮永東山と縁ができ30歳目前に京都の宮永東山を師匠として、東山窯の工場長を任命されることになります。
宮永東山の元で様々な作品に触れる機会が増えます。
その後、東山窯を訪れた北大路魯山人と知り合うことにより親交を深めていきます。北大路魯山人の感性に興味があった荒川豊蔵は北大路魯山人の手伝いをする為に鎌倉へ移ります。そして鎌倉の星岡窯で作陶に携わっていきます。
その後、名古屋の関戸家所蔵の志野筍絵茶碗と鼠志野香炉をみる時があって、そのことがキッカケとなって古志野の研究をしていきます。
そして古志野は瀬戸で焼かれたことが当時通説となっていたのを現在の可児市久々利大萱の古窯跡を調査した荒川豊蔵は志野が美濃で焼かれたことを解明しました。
そして数年後、星岡窯をやめて志野焼の地、大萱に自信が築窯して本格的な陶芸活動をはじめていきます。
大萱窯では志野、黄瀬戸、瀬戸黒、唐津などを再現して焼き続けます。
初めのうちは桃山時代の志野、瀬戸、織部などの写しを中心に再現をしていましたが、研究していくうちに、大胆にヘラを使うことにより造形などで徐々に独創的な作品を作り上げていきます。1941年に大阪の百貨店で初個展を開催し成功します。その後、数々の個展などを開きながら陶芸を極めていきます。
そしてその功績を認められた荒川豊蔵は1955年に志野、瀬戸黒で人間国宝(重要無形文化財)の認定をされました。
現在は全国で多数の陶芸家が志野や織部を作陶していますが、そのルーツは荒川豊蔵が美濃桃山陶器を解明して、昭和の志野を作り上げたことが大きく影響していることは間違いありません。
荒川豊蔵の作品は茶陶が中心に作陶しておりますが、形は手廻しろくろを使っていますが不自然な技は極力おこないませんでした。
豪快で野性味にあふれていながら奥深い自然を感じさせる作品は荒川志野と呼ばれています。その作品は誰にも真似できない匠の技に達し、昭和を代表する陶芸家となっています。
荒川豊蔵の作品はマルカでは高価買取しております。